仏さまはおられるのか、おられないのか。皆さんはどう思いますか。...
昨年の10月、音楽家の谷村新司さんが亡くなりました。1948年生まれで74歳でした。谷村さんは1972年に「走っておいで恋人よ」でアリスとしてデビューし、堀内孝雄さんらとともに「チャンピオン」や「冬の稲妻」などのヒット曲を次々と生み出しました。また、シンガーソングライターとしても活躍し、名曲「昴」は多くの方に親しまれました。まさに、日本の歌謡界を長く牽引された方でした。さらに、中国でも人気がありました。中国の知人が中国語で「昴」を熱唱する姿には驚きました。 10月8日は谷村さんの「命日」です。この日、NHKの「うたコン」は谷村さんの追悼番組を放送しました。堀内さんはアリスの名曲「遠くで汽笛を聞きながら」を披露しました。谷村さんを敬愛する鈴木雅之さんは「昴-すばる-」、平原綾香さんは「いい日旅立ち」、夏川りみさんは「三都物語」、生田絵梨花さんは「走っておいで恋人よ」を、それぞれ心を込めて歌いました。懐かしい曲を聞き、私も谷村さんの音楽に魅了されていた時代を思い出しました。NHKが「命日」に、このような番組を企画したのは、多くの方々に愛された谷村さんを偲ぶためです。また、彼が残した音楽とその功績に感謝する意図もあったのでしょう。 私たちの身近にも亡くなった方々がいらっしゃいます。仏となられた方は、「あなたは多くの命に支えられて今生きている」「阿弥陀如来さまはあなたを見放すことはない」と語りかけてくださっています。その声に促され、命のつながりを感じ、今この瞬間に命があることを喜びたいと思います。 身近な方の「命日」は、故人との縁を再確認し、命の重みを思い出す日です。この日を大切にすることで、充実した人生を送れると感じています。「命日」は私にとって特別な日です。静かに手を合わせ、亡き方と共に生きていきたいと思います。
8月31日、2024年パリパラリンピックの競泳男子50メートル自由形、視覚障害クラスで木村敬一選手が金メダルを獲得した。それに続き、9月6日の男子100メートルバタフライでも金メダル。2008年の北京大会から5大会連続で出場しており、今回で通算10個目のメダルとなる。...
七月二六日から八月十一日まで、フランス・パリを中心に開催された第三三回オリンピック競技大会が幕を閉じた。開会式はパリの中心部を流れるセーヌ川で行われ、競技会場にはエッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿、コンコルド広場など、世界遺産や歴史的建造物が含まれていた。テレビに映るその光景からは、パリの歴史の重みを感じ取ることができた。このような名所や既存の施設を活用したことで、オリンピックにかかる経費は低く抑えられたという。近代的な豪華さを誇示するのではなく、成熟した社会における在り方への転換であり、今回のフランスの試みには感心させられた。 オリンピックの期間中、テレビでは日本選手の健闘する姿が映し出されていた。日本選手が勝利すると、思わず「やった!」と声を上げることもあった。自然と日本選手の応援にのめり込んでいる自分がいた。しかし、そのうちに、世界中の選手たちの素晴らしいパフォーマンスに素直に感動し、拍手を送る自分もあった。 オリンピックは人の心を熱くする。その理由の一つは、選手たちの真剣勝負にある。彼らが見せる磨き上げられた技と体力は、人類の限界を感じさせる。ひたむきなまなざし、あきらめない姿勢、そして、勝利に喜ぶ姿には、崇高ささえ感じる。もう一つは、勝負が決した後の敵味方を超えてお互いを尊重する姿だ。ハグや握手には清々しさがある。さらに、彼らが口々に語る、支えてくれた人々や応援してくれた人々への感謝にも心を打たれる。そこには、勝ち負けにこだわる「俗の世界」を超え、お互いが尊重され、ともに安心できる、「聖の世界」が存在する。きっと「お浄土」とはこのような心地よい世界なのだろう。 今回のオリンピックで残念だったのは、ウクライナへの軍事侵を理由に、ロシアとベラルーシは国としての参加が認められなかったことだ。次回のロサンゼルスオリンピックは、世界の選手とロシアやベラルーシの選手たちがともに真剣に勝負し、競技の後にお互いをたたえ合う「お浄土」の光景が見られることを願いたい。派手な大会でなくてもよい。平和の祭典でありたい。
東本願寺では、毎年七月に約二週間の日程で「安居」という僧侶の学習会が開催されています。享保元年(一七一六)に始まるとされているので、三〇〇年を超える歴史があります。今年は私も参加しました。七月一七日から三一日まで、午前中は、『口伝鈔(くでんしょう)』(本願寺三代覚如(かくにょ)上人著)、『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』(親鸞聖人著)などをテキストに、専門的な講義がありました。それを受けて、午後は参加者同士の話し合いです。 もともとの「安居」の始まりは約二五〇〇年前のお釈迦様の時代です。インドでは雨季が四か月ほどあり、この期間は雨が激しく、修行僧は修行の旅(遊行(ゆぎょう))に出ることができません。そこで、お釈迦様は、修行僧を一か所に滞在させ、修行生活を送るように勧めました。 お釈迦様が「安居」を勧められた理由はもう一つあります。雨季は草木が繁り、多くの小動物が活動する時期です。もし、修行僧たちが各地を歩き回ると、植物の芽や若葉、小さな生き物を踏みつぶしてしまいます。生きとし生けるものの命を奪ってはいけないという仏教の教えにそむくことになるからです。 「安居」は修行僧の学習会だと思っていましたが、生きとし生けるものの命を守るというあたたかい教えがあることを知りました。併せて、講義からは、法然上人や親鸞聖人から受け継がれてきた念仏往生のみ教えや浄土真宗の肝要を、歴史学的な視点から学ぶことができました。今、自分中心の考えにどっぷり浸かっている私たちは、仏教から学ぶことをおろそかにしがちです。しかし、仏教には人間の生き方を豊かにする智慧があります。いろいろな機会を通じて、確かめ合いたいと思います。
大津市の石山寺は紫式部ゆかりの寺院で、今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」の放映もあって観光人気が高まっている。『石山寺縁起絵巻』によると、紫式部は石山寺にこもって7日目に、瀬田川に浮かぶ月を眺めながら『源氏物語』の一節を思いついたとされている。ここで『源氏物語』という大作を執筆したことから、紫式部は石山の観音といわれるようにもなった。 石山寺にはもう一つ観音伝説がある。それは、蓮如上人(幼名は布袋丸)の生母にまつわるものだ。生母は本願寺に仕える侍女で、存如上人(本願寺第7代)との間に布袋丸が誕生したが、正式な結婚は認められなかった。存如上人が正室を迎えることになると、「我はここにあるべき身にあらず」と本願寺を去ることになる。去りぎわに、6歳の布袋丸に鹿の子絞りの小袖を着せ、絵師に肖像画を描かせて形見とした。これが「鹿子の御影」で、石山寺本堂の横にある蓮如堂に祀られている。 このような悲哀漂う出来事は多くの人々の心を打ち、彼女は石山寺の観音の化身であるという噂が広まり、『蓮如上人絵伝』にも描かれるようになった。そのなかに、存如上人が石山寺を訪れた際、一人の女性が白蓮華を手渡し、姿はどこかに消えていったという絵がある。後に布袋丸の母となる人物で、石山観音の化身であることを暗示している。また、生母が本願寺を去る際、本堂から石山の方向に紫の雲がたなびいている絵もある。生母は観音となって石山寺に帰っていったことを示している。今日的な感覚では伝説は妄説であろう。しかし、当時の人々が生母とその母から生まれた蓮如の偉大さを崇敬したことは確かである。 その後、布袋丸は15歳で真宗再興の志を立て、17歳で得度し法名を「蓮如」とした。そして、43歳で本願寺第八代を継承した。よりどころとしたのは、生母が布袋丸と別れるときに残した「将来の御一代には必ず親鸞聖人の真宗を御再興したまえ」という言葉であった。この言葉を胸に、弥陀をたのみ、喜びをもって生きる道を説いていった。救いは生母のように名も知られることなく懸命に生きる人々に向けられたことは言うまでもない。
近江の金森衆は存如上人の時代から浄土真宗に帰依していた。その中心人物が川那辺と称する一族の有力者、道西(後に善従)(1399-1488)であった。彼は、蓮如上人(1415-1499)が本願寺を継職する以前から、上人を金森(守山市)に招き、村の人々と共に教えを聴聞していた。...
真宗大谷派京都教区と教区仏教青年会が主催する「親鸞ウォーク」に参加し、京都市内に点在する親鸞聖人ゆかりの地を巡った。出家し得度の道を歩んだ青蓮院、聖徳太子の夢告によって吉水へと導かれた六角堂、法然上人との出会いの場である吉水草庵(現安養寺)、ここから吉水の法然上人の所に通ったとされる岡崎草庵(現岡崎別院)などには歴史の物語が息づく。 心を奪われたのは円山公園奥の山手にある吉水草庵だ。比叡山を下りた法然上人が、西山広谷を経て草庵を結んだ地であり、承元の法難で配流されるまで、様々な人々に身分を超えて専修念仏の教えを広めた。現在は時宗寺院である安養寺が建っているが、本堂の阿弥陀如の脇には法然上人と親鸞聖人が鎮座し、法然・親鸞のゆかりの地として受け継がれていることが知れる。また、飛地の弁天堂境内の古井戸に彫られた「吉水」の文字は、よい水が湧き出ていることを意味し、これが地名の由来となったことを伝えている。 この吉水で、親鸞聖人は法然上人に入門し専修念仏の教えを受けた。29歳から35歳の時である。この間、選ばれた数人の門弟の一人として『選択本願念仏集』の書写を許された。夢中で書写し、その教えを噛みしめたことであろう。また、『親鸞伝絵』には「信行両座」「信心諍論」の場面があるが、吉水時代には、信心が大事であることや親鸞聖人と法然上人の信心は全く同じといった議論が盛んに行われていたことが知れる。 吉水時代の京都の景色は800年以上の歳月を経て変化している。しかし、親鸞聖人の法然上人との出あいがこの地に残した足跡は今も色あせることはない。 今回の行程を終えたとき、万歩計は23,000歩を刻んでいた。参加者は、歩き切った充実感と、親鸞聖人にいっそう寄り添えたような気分を味わい、来年も参加しようと笑顔で別れた。 スタッフの皆さんにはお世話になり、ありがとうございました。
お寺の掲示板に「桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹くずれる さて人は」とあった。桜の「散る」に対し、梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」というそうだ。散り方に花それぞれの表現があり、日本人の感性の豊かさを感じる。...
境内に咲く白いモクレンの花。秋にはひそかに蕾を育て、冬の寒さを耐えしのぎ、今、春の訪れを静かに告げるかのようにその端麗な姿を見せている。 10センチほどの花は、純白の色合いをまとい、空に向かって真っすぐに凛として立っている。まるで、開花の喜びを空に語り、青春を謳歌しているかのようである。...