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石山寺と蓮如上人の母

 大津市の石山寺は紫式部ゆかりの寺院で、今年はNHK大河ドラマ「光る君へ」の放映もあって観光人気が高まっている。『石山寺縁起絵巻』によると、紫式部は石山寺にこもって7日目に、瀬田川に浮かぶ月を眺めながら『源氏物語』の一節を思いついたとされている。ここで『源氏物語』という大作を執筆したことから、紫式部は石山の観音といわれるようにもなった。

 

 石山寺にはもう一つ観音伝説がある。それは、蓮如上人(幼名は布袋丸)の生母にまつわるものだ。生母は本願寺に仕える侍女で、存如上人(本願寺第7代)との間に布袋丸が誕生したが、正式な結婚は認められなかった。存如上人が正室を迎えることになると、「我はここにあるべき身にあらず」と本願寺を去ることになる。去りぎわに、6歳の布袋丸に鹿の子絞りの小袖を着せ、絵師に肖像画を描かせて形見とした。これが「鹿子の御影」で、石山寺本堂の横にある蓮如堂に祀られている。

 

 このような悲哀漂う出来事は多くの人々の心を打ち、彼女は石山寺の観音の化身であるという噂が広まり、『蓮如上人絵伝』にも描かれるようになった。そのなかに、存如上人が石山寺を訪れた際、一人の女性が白蓮華を手渡し、姿はどこかに消えていったという絵がある。後に布袋丸の母となる人物で、石山観音の化身であることを暗示している。また、生母が本願寺を去る際、本堂から石山の方向に紫の雲がたなびいている絵もある。生母は観音となって石山寺に帰っていったことを示している。今日的な感覚では伝説は妄説であろう。しかし、当時の人々が生母とその母から生まれた蓮如の偉大さを崇敬したことは確かである。

 

 その後、布袋丸は15歳で真宗再興の志を立て、17歳で得度し法名を「蓮如」とした。そして、43歳で本願寺第八代を継承した。よりどころとしたのは、生母が布袋丸と別れるときに残した「将来の御一代には必ず親鸞聖人の真宗を御再興したまえ」という言葉であった。この言葉を胸に、弥陀をたのみ、喜びをもって生きる道を説いていった。救いは生母のように名も知られることなく懸命に生きる人々に向けられたことは言うまでもない。