近江の金森衆は存如上人の時代から浄土真宗に帰依していた。その中心人物が川那辺と称する一族の有力者、道西(後に善従)(1399-1488)であった。彼は、蓮如上人(1415-1499)が本願寺を継職する以前から、上人を金森(守山市)に招き、村の人々と共に教えを聴聞していた。
二人の関係を示す逸話は数多くある。例えば、道西が『正信偈』の解釈を蓮如上人に懇願し、その要望に応えて執筆されたのが『正信偈大意』である。奥書には、「金森の道西が自身の勉強のためにとしきりに望むので記した」とある。また、蓮如上人は約260通の御文を書いているが、47歳の時に書いた最初の御文、いわゆる「筆始めの御文」は道西に宛てたものである。ほかにも、1465年、比叡山の衆徒が本願寺を破壊する「寛正の法難」があったが、そのとき蓮如上人は、道西のいる金森に逃れている。道西と蓮如上人には強い信頼関係があった。
では、道西は蓮如上人にどのような魅力を感じていたのだろうか。蓮如上人が親鸞聖人の教えに立ち返り、わかりやすい布教を行ったことは言うまでもない。そして、そのかかわりのなかににじみ出る親しみや人間性にも魅力があったのだろう。
『蓮如上人御一代記聞書』にはいくつかの逸話が記されている。例えば、身分の違いを問わずいろいろな方と同座し、膝を交えて話し合ったようだ。また、「寒空の中に本願寺にお参りされた方々には温かい酒を、炎天下の中にお越しくださった方には冷たい酒を振る舞う」こともあったようだ。権威者ぶることなく、お参りに来た人々を「一大事の御客人」と大切にする蓮如上人の姿勢と人柄は多くの人々に愛され、道西もその一人だったと思われる。
蓮如上人は、さびさびとした本願寺を再興し、親鸞聖人の教えを多くの人々に伝えることに尽力した。それを支えた一人が道西であったことは見逃せない。後に、本願寺の再興に、山科の地を選んだのも道西の願いによったと知られている。二人には、師弟関係を超え、共に阿弥陀仏の大悲に出遇った念仏者、そして、親鸞聖人の教えを広める伝道者としての絆があったのだろう。