お寺の掲示板に「桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹くずれる さて人は」とあった。桜の「散る」に対し、梅は「こぼれる」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」というそうだ。散り方に花それぞれの表現があり、日本人の感性の豊かさを感じる。
そして、このフレーズは「さて人は」と続く。人は、生まれ、老い、病気になり、そして死ぬ。だから「死ぬ」が答えだろう。かつて『人は死ねばゴミになる』(小学館文庫)が話題になった。著者は検事総長の伊藤栄樹氏で、在任中の62歳の時、ガンを患った。命が長くないと知らされると、人は死んだら、「まったくのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろう」と言った。言わんとするのは、死ねば何も残らないので、今を懸命に生きることの大切さであった。しかし、「死ねばゴミになる」とはあまりにも素っ気ない。
伊藤氏が死を受け入れ、今を有難く懸命に生きようとすることに異論はない。しかし、浄土真宗の門徒は、「死ねばゴミになる」とはとらえない。命が尽きたとき、阿弥陀の国である浄土に往生する。浄土に往き生まれ、さとりを開き仏となるのである。そして、その後は、この迷いの世界に還り衆生を教化する。阿弥陀如来は人の命を死んだら終わりでは済ませない。
今日、死ねば終わりというとらえ方への共感が漂っている。しかし、浄土を信じ、この命は永遠に続くと思えたとき、死は終わりでないと思うことができる。受け入れがたい死を受容し、そして、苦しみのあるこの娑婆世界を一生懸命に生きることへと導かれる。命尽きれば「人は往く(往生する)」。往生への道を歩むところに生きる意味を見出したい。