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「親鸞さんの話をしよう」③ −越後・関東での生活~京都での生活−

・越後・関東での生活(35歳から60歳ごろ)(第四日目)

 承元の法難で、法然門弟の4人が死罪に、また、法然上人、親鸞聖人ら7人が流罪となった。これにより、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後に配流となった。聖人は「もはや私は僧ではない。世俗の者でもない」と「非僧非俗」の立場を宣言され、以降「愚禿釈親鸞」と名乗られた。越後での生活は厳しかったが、精一杯に生きる人々とともに、誰もが救わる道としてお念仏の教えを伝えていかれた。

 1211(建暦元)年、流罪が赦免された聖人は、しばらくして常陸国(茨城県)へ向かわた。その途中、三部経を千回読もうとされたという逸話がある(「三部経千部読誦」)。疫病や飢餓に苦しむ民衆を見かねて、人々を救うことを目的に三部経を千回読誦されたのである。しかし、それはお念仏の教えではないと考え中断された。

 また、常陸国の板敷山での逸話もある。地元の修験道の行者「弁円」がお念仏を説く聖人の教えが広まっていくことに嫉妬し、聖人を殺害しようとしたのである。しかし、聖人と出会った瞬間、その姿をみて後悔し、涙を流し帰依したとのことである。

 

・京都での生活(60歳ごろから90歳)(第五日目)(第六日目)

 そして、約三十年ぶりに京都へ戻られ、聖人は『教行信証』の執筆に取り組まれた。(「帰洛(教行信証)」)。

 京都での出来事として、関東の念仏者「平太郎」が聖人のところに相談に来たという逸話がある。相談内容は、熊野権現にお参りすることになったが、阿弥陀仏を信じて念仏申す者が参詣してもよいのかであった。これに対し聖人は、職務でのお参りは仕方ないが、神様の儀式お作法でのお参りはよくないと答えられた。

 また、「善鸞義絶」という辛い出来事もあった。長男善鸞が、関東で他力の教えをゆがめ、念仏を誹謗する教説を広めたことから、聖人は善鸞を義絶されたのである。

京都では関東門弟との間では多くの問答がなされたが、その一つに「地獄一定(歎異抄第二条)」がある。関東の教団ではお念仏の教えに関する様々な問題が起こっており、関東門弟はそれに動揺していた。聖人は、「本願を信じ、念仏して阿弥陀に救われると説く法然上人の仰せに従い、信ずるほかに何もない。法然上人にだまされて地獄に堕ちても何の後悔もない」と言い切っておられる。

 さらに、関東門弟に「造悪無碍」という解釈も生まれた。これは、聖人の悪人こそ救われるとの教えを曲解し、悪を造っても往生の障りとはならならず、悪業を控える必要はないとする考え方である。聖人の消息には、その異義を嘆くとともに、正しい教えが繰り返し説かれている。

そして、1263(弘長2)年、聖人は90歳で往生の素懐を遂げられた(「入滅」)。鳥辺山南辺(現在の大谷本廟の地)で火葬され、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められた。10年後、聖人の末娘覚信尼は諸国の門弟の協力を得て、遺骨を吉水の北辺に改葬し、廟堂を建てご影像を安置された。これが後の本願寺の起源である。

〔参考〕「親鸞さんの話をしよう(冊子)」獅子吼の会 2024

なお、文中では法話会の21のテーマをそれぞれ「 」で示した。