「獅子吼の会」法話会では、パンフレットや資料も準備いただき、教養話としても興味を持った。以下が六日間にわたる法話の内容である。
・誕生・出家(9歳)(第一日目)
1173(承安3)年、親鸞聖人は「誕生」された。末法思想が広まり、世は飢餓と貧困と戦乱で荒廃していた時代であった。9歳で「出家」、そして、その後の20年間は比叡山で修行の日々を過ごされた(「比叡山時代」)。比叡山時代、19歳の時に聖徳太子のゆかりの地である磯長を巡られた。そこで、聖徳太子から「あなたの命はあと十年。その命が終わる時、あなたは浄らかな世界に入るであろう。本当の菩薩を深く信じなさい」との夢告を受けられた(「磯長の夢告」)。後の法然との出あいは、この夢告による導きであったととらえられる。
・法然上人とのであい(29歳)(第二日目)(第三日目)
29歳で比叡山を降り、「六角堂」で百日参籠し、95日目に救世観音のお告げを受けられた。この夢に導かれ、吉水の地の法然上人を訪ね、本願念仏の教えに出あわれた(「吉水入室」)。また、恵信尼との結婚は、この時期とされる(「恵信尼(結婚)」)。
法然上人の下で「信心一異の諍論」があった。聖人が「法然上人の信心と私の信心は同じ」と言ったことに対し、他の門弟は、「とんでもない思い上がり」と批判したのである。そこに来られた法然上人は、「他力の信心は阿弥陀如来からいただくものである。だから、人によって違うものではない。みな同じ信心」と述べられ、聖人の意見を支持されたという内容である。
また、「信行両座」という逸話もある。お念仏の教えは、念仏を称えること(行不退)か、それとも阿弥陀仏の本願を信じること(信不退)かと問い、門弟にどちらかの座に着くことを要請されたというものである。ほとんどが行不退の座についたが、親鸞と他の三人の者は信不退の座であった。そこに法然上人が来られ、親鸞と同じ信不退の座に座られた。念仏は信心を旨とすることを示している。
さらに、法然上人からは「選択集の書写」が許された。許されたのは門弟の数人で、法然上人に認められたことは、聖人にとって大きな喜びであった。しかし、1207(承元元)年、聖人35歳、朝廷からお念仏の停止命令が下り、念仏者が弾圧される事件が起こった。いわゆる、承元の法難である(「法難」)。